「はら、へった……」



グランドラインのとある国のとある街中。少年が一人道端に座り込み、そう小さく呟いた。
薄汚れた服と、暗い表情。もう3日もなにも食べてない。
胡乱な眼差しで通りを見るも、道行く人々はそんな少年などあたかも存在しないかのように歩いていく。
当然だ。ストリートチルドレンなんて珍しい存在でもないし、下手に構って懐かれでもしたら堪らない。
けれどその実情、いや端から見れば大差などないのだが、少年は別にストリートチルドレンというわけではなかった。
一応孤児院という帰るべき場所があったのだ。
しかし少年はそこへ帰るわけにはいかなかった。飛び出してきたからだ。



「ちくしょう、あのジジイ……」



すきっ腹を抱えながら少年は悪態つく。
彼は暮らしてる(今となっては暮らしていたという過去形ではあるが)その孤児院の院長と喧嘩をした。
売り言葉に買い言葉の勢いで出て来たのだ。喧嘩の理由は孤児院の経済的事情による運営困難。
ようするに貧乏が原因だった。街から出される雀の涙ほどの助成金と、大きな行事があるときの寄付金。
そして孤児たちの仕事で得た金によって孤児院はまわっていた。
けれど十人ほどの孤児が暮らしていく中では、それにも限界が近付いていた。
時期が悪かったのだ。年長者は立て続けに街を出て自立していき、残されたのは少年よりも年下の子どもばかり。
稼ぎ手がいなくなり、たちまち孤児院は窮地に陥った。収入は減り、支出ばかりが増えた。
院長は何とかしようと奮闘したのだが、高齢の身体で無理はきかず、結果的に倒れた。
幼い子どもと老人だけ。いよいよ危ない。
そんな折に孤児院を訪れた商人と院長の話を、少年は偶然耳にしてしまった。



「……そうですね、悪い話ではないでしょう?大丈夫ですよ、何も不幸なことじゃありません」
「………」
「出身は問わない、という声もあるのですよ。そうですね、今ならこのお値段で……いかがです?」



商人は奴隷商だった。
孤児院には一人だけ、少年と同い年の少女がいる。弟妹の面倒をみて、よく働く明るい少女。
その少女を含め、幾人かの子どもたちを買ってやろう。それが話の内容だった。
少年は愕然とした。院長がその話をおとなしく聞いていたからではない。
そんな話がくるほどに、ここの経済状況が逼迫していたことに気付けなかったことにだ。
いくら貧乏とはいえ、奴隷話がくるほどにまでだったなんて。
院長はその話を当然断っていたが、だからといって貧乏なことに変わりはない。
だから少年は、自らが奴隷になることを選んだ。
ロクに稼げない自分がこのまま居座り続けるより、奴隷になって大金を手に入れたい。
そうすればその金で弟妹たちに飯を食べさせてやれる。だから言ってやったのだ。



「オレを売って、その金で食い物買えよ」



仕方なく売られるんじゃない。自分から望んで売られるんだ。
だというのに院長はそんな金は受け取らないと言う。それでは意味がない。
今までどんな説教をされようとも下げたことのなかった頭を下げてまで頼んだ。
返答は、怒鳴り声と拳だった。



「馬鹿が!お前なんか売ったところでなあ、大した金にゃあならねぇんだよ!馬鹿か!」
「でもないよりましだろ!売れよ!」
「馬鹿が!お前を売るよりこき使った方がまだ役立つわい!馬鹿か!」



別に自棄になったわけじゃない。孤児院にいることが嫌になったわけでもない。
ただ、自分を売ることでみんなが楽になるならばそれが良いと思ったのだ。
院長だってもう年だ。無理をできる身体でもない。事実倒れた。
だからこそ自分を売ってくれ。そう頼んだのが聞く耳を持たず、それどころか喧嘩になった。
だから、出てきた。せめて自分の分だけでも負担の減るように。



「心配しなくてもオレは一人で生きていけんだよ!」



威勢良くそう言ってきたものの、結局のところ世の中はそう簡単に上手くはいかない。
街を歩けど薄汚れた何もできない子どもを雇ってくれる人間がいるほど甘くはなく、少年は何もできないままに日々を過ごした。
空腹だ。もう限界が近い。だからといって、孤児院に戻るなんてことはできない。
漏れそうになるため息をぐっとこらえて、少年は道行く人々を睨みつけた。

一人の男と、目が合った。

男は両手にパンパンになった袋を抱えている。
なんとなく目が離せなくて、じっと見続けていたら、やがてずんずんとこちらへ近づいてきた。
なにか因縁でもつけられるのだろうか。逃げなくては、そう思うも身体に力が入らない。
少年のすぐ目の前に立った男は黙ってこちらをを見下ろした後、隣に腰を下ろした。
くわえていた煙草の煙をふーっと吐く。男はなにをするわけでもなく、ただそこにいた。
沈黙が続く。街の人間は少年には目もくれなかったが、小綺麗な男には目がいくようだ。
先程からチラチラとこちらへ視線が向けられるようになった。



「……おっさん、何の用だよ」
「おっさんじゃねぇ。別に、ただの休憩だ」



続く無言の応酬に堪えられなくなったわけでもないが、いい加減居心地が悪くなり少年は口を開いた。
男はまたもやぷかりと煙を吐きながら言葉を返す。煙草の匂いに混ざって何か良い匂いが漂ってきた。
気付かれないようにそろりと目だけ動かせば、男が抱えていた袋からパンが覗いている。
ごくり、思わず唾を飲み込む。奪おうか。
この男相手ならいけそうだ、と窺うように視線をちらりと顔へ移動させれば、目が合った。
すっと男の目が細められる。まずい。よからぬことを考えていたことがバレたか?
けれど、男が発したのは少年が想像したものとまるで違っていた。



「お前、料理はしたことあるか」



……何を喋るかと思えば。



「なんであんたにそんなこと答えなくちゃなんないんだよ」
「俺の質問に答えたら、食い物やる」



その言葉に思わず男の顔を見やれば、相変わらず空を見上げながら煙を吐いている。
苛つく男だ。少年は思った。何を考えているのかは知らないが、こちらが腹を空かしていると分かっての台詞。
逆らうこともできたが、それには少年はあまりにも腹を空かしていた。
思い通りになるのは癪だと思いながらも、少年は答えた。



「ある」
「親はいないのか」



不躾な問い掛けに頬がカッと熱くなる。
なんでそんなことまで答えなきゃなんないんだ!そう叫びたくなるのをぐっと堪え、これも食い物のためだと答えた。



「海賊に襲われて、4年前に死んだ」
「海は好きか」



振り絞るように答えたというのに、少年の心情を知ってか知らずかすぐさま男は続ける。
少年は睨みつけていた視線を外し、抱えた膝に頭を押し付けた。海は、嫌いじゃない。
少年は街の港に住んでいた。父親は漁師だった。舟を出し、海へ出ていたところへ運悪く海賊と鉢合わせし、殺された。
母親も一緒だった。少年はそのことを海軍から聞かされた。
桃色の髪の、なんだか頼りなさ気な顔の海兵が固い表情でそう告げてきたのを覚えている。
両親は海で死んだが、海を嫌いにはなれなかった。沢山の思い出が海にはあったから。そう少年は答えた。
質問はそれで終わりなのか、男からは返事の代わりに袋が差し出された。中にはパンと串焼きと林檎。
久々の食事に口の中が唾液で溢れる。引ったくるようにしてそれを受け取り、少年はがっつきながら口へと運んだ。
どれも美味い。男は変わらず座っている。構わず食べていた少年だが、林檎を半分ほど食べたところでふと我に返った。
これ、あいつらに持っていってやれば、きっと。脳裏には血の繋がらない弟や妹たちの顔が浮かんだ。
まだ袋の中には沢山残っている。到底一人で食べ切れる量じゃない。だったら、持って帰って分けてやるべきだ。
そんなことを考えていると、少年の手が止まったことを不思議に思ったのか男は再び口を開いた。



「食わねぇのか」
「……食わねぇ。持って帰ってチビどもに食わせてやんだ」



少年の言葉に男は眉をひそめた。おかしな眉毛。
ぐるぐるとなっているそれは、不思議と男に似合っていた。
しばらく睨むように見つめていたが、やがて少年はすくっと立ち上がり袋を抱えて駆け出した。
目指すは孤児院。一度は出て行った身だが、この食べ物を届けるだけだ。
ジジイに見つからないように、こっそりチビどもに渡してやればいい。きっと喜ぶ。
路地を抜け、橋を渡り、丘へと走っていく。タッタッと少年の足音が鳴る中、ふとその音が重なっていることに気が付いた。
なんだ?と後ろを見てみれば、先程の男が後ろをついて走っていた。ぎょっとして叫ぶ。



「何の用だよ!」
「気にすんな」



飄々とした態度で男はしれっと返した。撒こうにも、ムカつくことに少年の二歩が男の一歩。
ひょいひょいと軽やかに駆けて来る。……もう知らねぇ。こんな奴なんか無視だ無視。
頭の中から男の存在を無理矢理追い出して、足を進める。孤児院が見えた。
それと同時に、院長の白髪頭が見えたので速度を落とした。……裏から回るか。
少年は院長の位置を確認しながら移動する。
ジジイ、痩せたか?幾日かぶりに見るその姿は、記憶よりも少しばかり小さくなって見えた。
やっぱり、金がないんだ。ぎり、と奥歯を噛み締める。
こんなその場しのぎ程度の食い物じゃだめだ。金だ。金がいる。
……ジジイが受け取ってくれないならば、あいつに渡そう。少年の脳裏には、同い年の少女の顔が浮かんだ。
奴隷商に自分を売り、その金を渡すのだ。あいつだったら上手くやってくれる。
よし、と決意したところで見つかった。



「あーっ!にいちゃんだ!」
「ほんとだぁ!」
「おかえり!どこ行ってたのー?」



駆け寄ってくる弟妹たち一人一人言葉を返しながら、少女の姿を探した。
この時間だったらまだいるはずだが……。急がねぇと、ジジイに見つかる。



「なあ、あいつはどこ行った?」
「ねーちゃん?しらなぁい!」
「あたししってる!あっちでおじさんとお話ししてるよ!」
「おじさん?誰だ?」
「しらない!」



わかった、と頷いて少年は持ってきた食料を弟妹たちに渡した。
わあっと騒ぎ出した弟妹たちに、みんなで分けろよと言ってその場を離れた。
基本的に、この孤児院に部外者はあまり立ち寄らない。
ほとんどの人間とって、いたところで楽しい場所でも気持ちの良い場所でもないからだ。
結果孤児院に立ち寄る人間は限られてくるので、必然的に顔見知りであることが多い。
けれども弟妹たちは来客者について、誰も知らないと言う。なんとなく嫌な予感がし、少年は足早に歩を進めた。
そして向かった先では妹の言ったように男がいた。



「さあ、早く決めたらどうです?貴女にとっても悪い話ではないことは理解しているでしょう。そうですね?」
「あたしは……」



狭い講堂の中で、口ごもる少女に笑みを浮かべる男。
少年はその男の顔に見覚えがあった。
―――奴隷商人の、顔だ。当然この国でも奴隷は禁止されているのだが、どの世界にも裏はある。
国の眼をかい潜り、商人たちはストリートチルドレンや孤児院などいなくなっても発覚しないような場所から将来性のある子どもを見つけ、時に買収し、時に攫い奴隷とする。
つまり商人が少女にする話といえば一つしかない。少年は怒りに拳を握り込む。



「ふざけんなよ!」
「おや」
「ここはてめぇみたいな奴が来ていい場所じゃねぇんだよ!帰れっ!」
「おやおや、何を言うかと思えば……私はこの孤児院に資金の援助をしようと話しているのですよ?そうですね、帰ったところで困るのはあなたたちでしょう」



やれやれと肩をすくめる様が癪に障る。
けれども商人が言う通り、金がないと困るのは確かだった。
だから当初の目的通り、少年はならば自分を買えと商人に持ち掛けた。
少女は目を見開き驚きをあらわにするが、対する商人の反応は冷たいものだった。



「いりませんよ。反抗的で頭の悪い餓鬼なんて、わざわざ金を出す必要がありません。そうですね、私が欲しいのはお嬢さんの方です」
「っ、金がいるんだよ!」
「……そうですね、ではお嬢さんが付いてくるなら構いませんよ?」



彼女とセットであれば、そうですね、10万ベリーにしてあげましょう。
そう言いながら愉悦に浸る商人に、少年は顔を怒りに染めた。



「このっ、クソヤロォオオオ!!」



拳を振りかぶり商人に殴りかかる。
だがしかし、商人はその見た目に反した動きで素早く避けると、そのまま少年を蹴り飛ばした。
そして壁にぶつかり倒れた身体に、薄ら笑いを浮かべたまま踏み付けはじめた。



「が、はっ……あぐ、ぅ……」
「あっはっはぁ!」
「ぁが、ぐっ」
「っやめてぇ!」
「……邪魔ですよ」



少年の呻く声に我に返った少女は、駆け寄ろうとするも乱暴に振り払われた。
倒れ込む少女をふん、と一瞥する。そして言葉を続けながら少年を更に痛め付けた。



「私はですね、君みたいなのが一番嫌いなんですよ」
「ぃあっ、く……」
「立場をわきまえない、虚勢を張る、頭が悪い」
「っが、……はっ、ぐ」
「そしてなにより、その偽善!家族ごっこなんて、反吐が出る」



倒れ伏した少年の頭を踏み付けながら商人はそう吐き捨てた。



「―――さて、奴隷になりたいのでしたよねぇ?ではお望み通り買い取って差し上げます。そうですね、特別に1ベリーでどうです?破格でしょう。そうですね、加虐趣味のある貴族に性奴隷として売り付けましょうか。もちろんお嬢さんも一緒に」



ふふふ、と商人はひどく楽しげに歪んだ笑みを浮かべた。
動かない身体に、少年は叫びたい気持ちでいっぱいだった。
ただ家族に楽をさせたかった、幸せになってほしかった、それだけなのに。
自分だけでなく、家族までをも巻き込んでしまった。最低だ。最悪だ。
絶望的な状況の中で、それでも一矢報いようと拳を握り込んだそのときだった。



「おいおい、そのガキは俺が買おうと思ってたんだぜ?何してくれてんだよ」



昼間出会った男が、のんびりとした足取りで入ってきた。



「……なんですか、あなたは」
「なにって、ただのしがない船乗りコックだ。そいつを買い取りにきたのさ」
「これを、買う?」
「ああ」
「何を馬鹿なことを。これは私が買うと決めたのです。船乗りごときが横槍を入れないでいただきたい」



呆れたように商人はやれやれと肩を竦めた。
小馬鹿にしたその態度にも男は怒ることなく、そのままこちらへ進んで来る。
がしかし少年を素通りし、そのまま奥へ行くと倒れていた少女をそっと起こした。
そして横抱きにすると、同じように少年を素通りして部屋を出て行った。
商人は踏み付けたまま、少年は踏まれたまま呆気に取られる。
自分を買うとか言ってたくせに、何なんだ?男はすぐに戻ってきた。
変わらぬ足取りで歩いてくると、今度は素通りせず少年のすぐ側に来て、

ガッ

商人を蹴り飛ばした。油断していたのか、瞬く間に壁へとたたき付けられる。



「おいクソガキ」
「は、」
「お前のことは俺が買い取った。……6000万ベリーだ。文句はねぇだろ」
「なんで、」
「俺がお前を欲しいと思ったからだ」



ついさっき会ったばかりの男。その真っ直ぐな瞳は、少年を貫いた。
こいつなら。
わけもなく納得してしまった少年はぎこちなく頷いた。



「………わかった。オレを、買ってくれ」
「交渉成立だな」



にやりと笑った。なぜだろう。商人と同じ笑みを浮かべてるはずなのに、全然違う。
少年は男を見上げながら思った。ふと、背後で音がした。
痛む身体で首だけ動かすと、商人がよろよろと立ち上がっていた。痛みに顔をしかめながらわめき立てる。



「こんな、こんなことをしてただで済ませると思っているのですか!この街には私の仲間がいるのですよ。私がこんな目に会ったといえば、そうですね、合計7000万ベリーの海賊たちがあなた方に」
「うるせぇな」
「なっ」
「だからそこにあるだろ、6000万ベリーが。あと1000万ベリーはここに」
「……ま、まさか」
「まぁたいして強かなかったがな」



見せ付けるようにひらひらと札束を振ってみせる男。
驚愕に目を見開く商人。
その様子を呆然と見ている少年。
展開の早さについていけない。男はそのまま悠然と歩き、倒れていた少年を小脇に抱え上げた。



「海軍に連絡するよう、じいさんに言っておいた。直に来るだろう」



男は少年を見もせず話し始めた。ヘビースモーカーなのだろうか。また煙草を吹かし始めた。



「俺はお前のことを買ったが、手元に置いておく気はない。野郎だし」
「じゃあ捨てるのか」
「バカヤロウ、そんなことするか。お前はこれから、レストランで身を粉にして働くんだよ」
「レストラン?」



ああ、と頷く。



「雀の涙ほどだが、給料だって出る。6000万稼いだら自由の身になれるぞ」



6000万ベリー。途方もない金額だが、稼げないと絶望するほどではない。
よっぽどそのレストランとやらの給料が悪くなければ稼げる金額だ。
……それを考えると、この男に利益がない。
結果的に倒したとはいえ、海賊に喧嘩を売った上にその賞金を孤児のため使う。
お人よし、で片付けばいいが、この男はそうではない気がする。



「なぁ……なんであんた、そこまでしてくれるんだ?」
「……良いコックっていうのはな、それなりのモンがある」
「は?」
「お前はそれなり、だったからな」



それだけだ。男はそう言うと、少年を放り投げた。
痛みに悲鳴を上げると、少年の周りにはいつの間にか弟や妹たちが集まっていた。



「1時間やる。それまでに出て行く準備と、別れを済ませろ」
「は?って、おい!」
「場合によっちゃあ一生会えねぇ。悔いのないようにしろよ」



こちらの疑問に一切答えることなく、一方的に言い捨てていった。
呆然と男が出て行った扉を見ていると、いつの間にかそばにいた少女が黙って傷の手当をしていた。



「大丈夫、だったか?」
「……うん」
「聞いただろ?さっきの話」
「……うん」
「もう、平気だからな。金が手に入ったから、今までよりずっと楽に暮らせる」
「ばか」



少女が涙を滲ませる。その姿に少年は言葉を詰まらせた。
少女の心中を感じ取ったのか、弟妹たちも不安そうにしている。



「……ごめん」
「ばか」



少女は、声を上げて泣いた。



***



本当にこれだけか、と思えるほど少ない荷物を鞄に詰めて、少年は入口で待つ男のもとへと向かう。
家族との別れは済ませたが、院長だけは姿を見せなかった。
喧嘩したのだから仕方ないと思いつつ、寂しさを感じながら足を進めた。



「おにいちゃん……」
「ねーちゃんの言うこと、ちゃんときくんだぞ」
「いつかえってくるの?」
「お前らが大きくなった頃だな」
「……無理しないでね」
「おう」
「手紙くらい書いてよ」
「たまにな」
「あんたの家は、ここなんだからね」
「知ってる」
「―――いってらっしゃい」



綺麗に笑ってみせた少女に、少年は一瞬言葉を詰まらせながら「いってきます」と応えた。
少女と弟妹達は、少年の姿が見えなくなるまでずっと手を降り続けた。



***



声をかけられたのは、出航しようとする船へ乗り込む直前だった。



「……世話になった院長様へ礼の一つでも言えんのか、クソガキ」
「っ、ジジイ!」
「馬鹿が。そんな有様で働けるのか、馬鹿か」
「…なんだよ、説教しに来たのかよ」
「お前に餞別をくれてやろうと思ってな。特別だ」



ほれ、と差し出されたのはボロボロの方位磁石だった。
航海にはたいして役立たない、方角を示すためだけのものじゃないか、と文句を言おうとした時だった。



「船へ乗ったらそれを見ろ。………故郷の位置を、間違えるでないぞ、馬鹿が」
「ジジイ……ありがとう。いってくる」



***






少年はその後、男の宣言通り海上レストラン、バラティエに放り込まれた。
少年が想像していたのは洗練されたコック像とは正反対の、ゴロツキのような、けれども腕は確かなコック達に揉まれながら少年は成長していく。
やがては次代を担うコックへ、そしていつかの男のように海賊になるのは、また別の話。













袖振り合うも多生の縁